もみの木仲間達は物知り、体験豊富、確かな目、心が豊か、いい所ばっかりのみんな!

仲間達が生まれてからから100年! 時代の進化は急速にしてきました。私と話をしていても信じられないようなことが、ビックリするほど沢山あります。15年ほど前にもみの木の仲間達のチョット昔ばなし、まとめる事も大事な事かなと「もみの木、昔ばなし」100話ほど集まったら冊子にしようを決めていました。50話ほど下書きが出来ていたのに、忙しさにかまけてそのままになっていました。歴史に残るような話ではないけれど、今残しておかねば、風化され誰も語ることもなくなってしまう、今、やらねばなんて一念発起、冊子にするより、ネットで配信の手があったと書き始める事にしました。一緒に、楽しかった、辛かった、苦しかった、面白かった、今生きているのはこれがあったから、なんて振り返って、みませんか。たくさんの方々の話、沢山集めたいと思っていますので、ちからを貸してください。

 

 

自分で考えて動けるなんて思わなかったから

Aさん(2024年 96歳)

父親がいなかったから兄貴の世話になっていた。

結婚も、呉服屋さんが仲人になってくれ見合いで結婚した。結婚適齢だったから、2つ見合いの話が合ったけど、本当は私は、違う方に行きたかったけど、兄貴が決めたほうに行くしかなかったので、大原に嫁いだ。夫は背の高い人だった。男の子が生まれた。5年ほどたった時に夫は病気になった。一ヶ月ほどで亡くなった。自分の旦那さんだったけど、親たちが看病をしてくれ、どんな病名だったのか、どんな状態だったのかも知らない。

自分は見てやれなかったけど、子供がいたから仕方がなかったのかなー。今思うと、自分の旦那なんだから自分が看病してやればよかったなと悲しいおもいがある。

今の人なら相手が亡くなれば出ていって、親とは別に暮らすとか、実家に帰るとかしたんだんだろうけど、そんな考えは、全くなかった。「嫁に行けば、嫁いだ先で一生を終える」のが当たり前だったから、子供見ながら、いちゃったんだね。親はいい人だった。子供に手がかからなくなってから、鬼怒川温泉に接待さん(女中さん)として働き始めた。それこそ、夢中で働いた。大変だったけど…こんな年になるまで生きているんだものね。

 

 

2024731日(水)とても暑い日

参加者 巌、ヤエ子、トク、光雄、久子

昔話、虱、ノミ

子供のころみんな、虱がいた。着る物の裏側に虱がいっぱいついていた。

今みたいに虱に聞く薬なんかなかったから、着てるもの脱いで、藁を燃やしてその上で、ぬいだ着もの、揺らして、熱くなった虱が火の中に落ちて殺したんだよ。

また親がいるときは窯にお湯を沸かして家族の着る物入れて煮て、消毒した。

虱が着てるものにびっしり付いていたんだよ。虱は刺されたときは痒いけど、あんまり後も残らずに、治っていたけど、ノミは刺された跡が2,3日残っていた。

ノミもいっぱいいた。ノミは跳ねるから採ろうと思ってもなかなか捕まらなかった。ノミだって着物の縫い目にイッパイいた。

学校に行くと、先生がDDT を頭に掛けてくれた。あれは虱の駆除だった。それが嫌な思い出として残っている人も多い。今から70年ほど前(昭和25年)のころの話かな~

 

 

ハエ

みんな農家の育ちの人が多いから、どこの家にもハエがイッパイ、団体でいた。

食べ物を置くとすぐにハエが来て集った。今もあるけど「蝿帳」をかけてハエから食べ物を守った。特に夏はトウモロコシをおやつに蒸かしてもらって食べた。とうもろこしをおくとすぐ、ハエがそれこそビッシリ集り、今だったら、絶対食べない、ばい菌がついているから、捨てるなんて言うけど、ビッチリついたハエを払って、平気で食べたっけ、なんて

今思うとなんであんなことが平気だったんだろうと恐ろしい。

ハエだって居るわけだよね。同じ家のかなに牛、馬も住んでいたんだから

秋には乾燥芋を作ってあって、お腹がすくと乾燥芋が干してある処に行き、食べた。そこにもハエが集っていたけどハエを追い払って、食べた。それが美味しかった。

 

 

回虫、蟯虫

学校で回虫、蟯虫の虫下し飲まされた。「あの人、顔色悪いから、虫がいるよね。痩せてるから虫がいんのかな」等と言って虫下しを飲んだ。虫下しを飲むと10センチもあるような回虫がおしりから、出て来た。「新聞紙でおしり拭いていたから、おしりからで切れない回虫引っ張りだしたこともあるよ」と自分が実際に体験したこと話ました。

 

そういえば、「虫下し」の薬って一回飲んだだけではお腹の中にいる卵まで駆除できないので半月後にもう一回のんだっけ。昔は野菜等にやる肥料が無かったから、糞尿を肥しとしていたので、回虫も蟯虫もお腹の中に入ってまったのだろうな。虫下しだって必要だったんだろうな。

 

甜瓜(まくわウリ)ー昭和50年頃ー

子供のころ、陸稲(おかぼ)を作っていた。水を張って作るコメとは違い、あまり味しくなかったからか、今はあまり作っているのを見なくなった。 少しでも食べるものを作らなくてはと、陸稲の畑に、陸稲の間の少しの場所にも、作物を作っていた。小豆を蒔いたり、甜瓜を作ったりした。マクワウリあの頃は食べるの楽しみで、採りに行って食べた。

今頃は、あまり甘くないし、味も薄いのでたべなくなった。黄色くて、綺麗な色、懐かしい思いが一杯ある食べ物。

 

とくさんの話(2024年 95歳)

学校に行くのにおじちゃんが、足中を作ってくれた。

小佐越から萬年橋(当時は吊り橋だった)わたって、線路伝いに学校に歩いていくと足中は1日でよたよたになってしまう。けど女の子は自分一人だったから、可愛くて作ってくれたんだね。線路通っていくのも、昔だったから、当たり前に皆、歩いていた。

 

結婚したのが21歳だったから、20歳のころだった。駄賃付けって言って、馬引いて、荷ぐらに炭を4タイつけて木戸が沢鉱山の奥の方にあった炭焼き小屋から、家まで運んだ。駄賃はいくらくらいだったかな?うちまで運んでおくと、炭を買いに来て持って行った。そのころは萬年橋が吊り橋だったから、揺れる、風が吹くとオッカナイほど揺れる。吊り橋の綱にしっかりつかまって「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」って拝みながら、渡ったんだ。夏だと、木戸が沢鉱山で働く人たちが、夕涼みに橋の上にいっぱい出てきていた。懐かしい光景だった。

炭俵はカヤで編んだ。カヤを刈ってきて乾かして、コメの俵を編むのと一緒、仕事は次から次といくらでもあった。手作業だったから、大変だった。